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濃州堂 社製 |
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会津兼定(あいず かねさだ)写し模擬刀 77,760円(税込・送料別) |
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幕末、会津藩お抱えの刀工、和泉守兼定です。室町時代の関の著名刀工兼定の後代になります。この会津兼定に人気があるのは、なんといっても土方歳三をはじめとする、新撰組隊士に愛用されたことによります。 風雲急を告げる激動の時代を、作刀で支えた刀工でした。 |
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濃州堂 社製 |
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仁王清綱(におう きよつな)写し模擬刀 79,920円(税込・送料別) |
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鎌倉時代、周防国の刀工で、室町時代まで続く仁王一門の元祖といわれています。杉森の合戦で、仁王堂に火をかけられたところ、清綱が自ら鍛えた太刀で大鎖を裁ちきり仁王像を救い出したのがこの名のゆえんといわれます。この時代の刀剣類は、太刀(長寸で反りが強く、刃を下にして侃く)であったわけですが、後に磨上(茎を加工して刃渡りを短くする)されて、打刀(長さは太刀よりも短めとなり、刃を上にして差す)になったものが多いようです。 |
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濃州堂 社製 |
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長曽祢虎徹(ながそね こてつ)写し模擬刀 85,320円(税込・送料別) |
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寛文新刀の名工虎徹です。元々は甲冑師であったものが、50代にして刀工へと転向した人です。斬新な作風と抜群の切味のよさで絶大な人気を誇っています。新撰組局長近藤勇の愛刀としても有名で、池田屋事件の折にも虎徹を持って斬り込み、長時間に及ぶ激闘にも耐えたと伝えられています。 |
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濃州堂 社製 |
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勢州村正(せしゅう むらまさ)写し模擬刀 77,760円(税込・送料別) |
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室町時代、伊勢の国の刀工です。妖刀としてあまりにも有名で、徳川家に不吉とされ、銘を改ざんされることもあったそうです。ところが、徳川幕府を崇るとのいわれが幸い(?)してか、逆に幕末には勤皇の志士の間で大人気になったそうです。 |
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濃州堂 社製 |
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相州正宗(せしゅう むらまさ)写し模擬刀 77,760円(税込・送料別) |
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鎌倉時代、相州鎌倉の刀工で、その作は名刀の代名詞となっています。現存する多くは、国宝や重要文化財に指定され、今更説明の必要もないほどです。正宗の刀もまた、磨り上げられたものがほとんどで、在銘品は短刀が主になります。 |
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濃州堂 社製 |
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勢州村正(せしゅう むらまさ)写し模擬刀 79,920円(税込・送料別) |
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江戸時代の名工、水心子正秀。刀剣実用論の著者でもあり、各伝法を研究した人で、復古刀の説を唱え、多くの門人を抱えて活躍したようです。現代刀工にも、水心子の流れを汲む流派が少なくないようです。特に初期には、大阪物の写しを得意とし、津田越前守助廣の濤瀾刃を焼いたものに名作があります。また、あの勝海舟が愛刀としていたことでも有名です。 |
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濃州堂 社製 |
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孫六兼元(まごろく かねもと)写し模擬刀 77,760円(税込・送料別) |
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室町時代、美濃国「関」を代表する刀工です。兼元の刀は豊臣秀吉を始め多くの人々に愛用されてきました。「兼元」銘は現代に至るまで脈々と続きますが、二代兼元が通称「関の孫六」と呼ばれ最も有名です。いわゆる「三本杉」という刃文でおなじみです。 |
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濃州堂 社製 |
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柳生厳包(やぎゅう よしかね)写し模擬刀 108,000円(税込・送料別) |
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柳生厳包、寛永2年(1625年)−元禄7年(1694年)は、号を「連也斎」といい、尾張柳生家の始祖である柳生兵庫介利厳の三男で幼少より剣術の才能に恵まれ、利厳の高弟、高田三之丞により指導を受ける。「尾張の騨麟児」の異名を持ち流祖、上泉信綱より柳生宗厳(石舟斎)、柳生利厳と連なる新陰流の剣術を完成させたと言われている。柳生椿は柳生連也斎の愛刀の外装を基にして製作されており、愛刀の大小の茎にはそれぞれ「籠ツルへ」「笹露」と呼ばれる銘が入っている。 |
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濃州堂 社製 |
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楠木正成(くすのき まさしげ)写し模擬刀 90,720円(税込・送料別) |
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楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将。1331年、鎌倉幕府打倒の兵をあげた後醍醐天皇に加勢して挙兵する。幕府の大軍との攻防戦では、さまざまな計略をもちいたゲリラ戦法によって幕府軍をなやませた。1334年の後醍醐天皇による建武政権成立後は、戦功により天皇に重用されて多くの領地をあたえられた。また、菊紋の入った菊水の紋章も授り、南朝の四功臣の一人と称えられ、中央政界で活躍した。後に建武政権から離反した足利尊氏の軍との戦いの際に負けて湊川で自害。最後まで勤王をつらぬき忠義を尽くした悲劇の武将。(景光は長光の子といわれ、備前長船派の正系の刀工として鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍をした刀工。) |
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土方歳三(ひじかた としぞう)写し模擬刀 90,720円(税込・送料別) |
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土方歳三は、幕末に近藤勇、沖田総司らと新撰組を組織して副長となった。武蔵国石田村(東京都日野市)、土方義諄の4男として生まれ、実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、近藤周助のもとで天然理心流剣術を学び、近藤勇と同門となる。文久3年(1863年)2月、歳三は、近藤道場(試衛館)の仲間とともに、幕府の征夷大将軍徳川家茂警護のための浪士組に応募し、近藤勇や沖田総司らと京都へ赴く。初代局長、芹沢鴨の暗殺後も、2代目局長の近藤勇を助けて洛中洛外の警備にあたった。元治元年G864年)の池田屋事件で、彼らの名声は一躍高まる。明治元(1868年)の鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争)では近藤に代って隊を指揮するが、敗れて江戸に戻った。その後、名を内藤隼人(はやと)と改め、近藤らと甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織して甲斐国勝…沼(山梨県甲州市)で官軍と戦い、下総国流山(千葉県流山市)に敗走。近藤らが捕らえられた後、小山、宇都宮、会津と転戦、奥羽列藩の脱藩兵らとともに榎本武揚のひきいる旧幕府艦隊に合流して、蝦夷地に渡った。翌69年、箱館(函館)に成立した蝦夷島政府では陸軍奉行並(ぶぎょうなみ)に選任されたが、5月の五稜郭での抗戦中、銃弾にあたって戦死した。墓は日野市の石田寺にある。 |
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濃州堂 社製 |
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直江兼続(なおえ かねつぐ)写し模擬刀 92,880円(税込・送料別) |
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直江兼続は、戦国時代から江戸時代前期にかけ、ひたすら利のみを求める風潮のなかで、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将として知られる。「愛」は、兼続が崇拝する守護神・愛染明王からいただいたものとも、「愛民」という民を慈しむ心の表れだとも言われている。永禄:3年(1560年)、越後国魚沼郡坂戸城下(現・新潟県南魚沼市)にて、坂戸城主長尾政景の家臣、樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれ、幼少の頃より政景の次男喜平次(のちの上杉景勝)に仕え、自身が死ぬまでこの主従関係を貫いた。景勝の養父である上杉謙信から様々な薫陶を受け、その「義」の精神を受け継いでいった。天正6年(1578年)、謙信の急逝により上杉家の家督をめぐる争い(御館の乱)が起こると、兼続はよく主を支え景勝方の勝利に貢献した。この時の功績により、兼続は21歳の若さで家老に抜擢された。天正9年(1581年)、御館の乱の論功行賞をめぐるいざこざに上杉家重臣の直江信綱が巻き込まれ死去するという事件が起こった際、上杉家中の名門である直江家が途絶えるのを惜しんだ景勝から直江の名跡を継ぐよう命じられると、直江家を継いで与板城(現・新潟県長岡市)の城主となり、名乗りも直江兼続と改めた。 |
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濃州堂 社製 |
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宮本武蔵(みやもと むさし)写し模擬刀 97,200円(税込・送料別) |
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宮本武蔵は、天正12年(1584年)、美作国(岡山県)に生まれ、13歳で新当流の有馬喜兵衛に打ち勝って以来、60余度の勝負をして一度も敗れなかったと伝えられており剣豪として名高い。剣理を追求して兵法の奥義を極め、二天一流兵法を創始することになる。また、武蔵は水墨画家工芸家としても知られる。晩年は肥後藩主細川忠利に招かれ、熊本で過こし、本市千葉城町に居を構え、忠利の相談役を務め、忠利没後は失意のもと霊巌洞にこもり、自己の武道の集大成ともいえる「五輪書」を書く。 |
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濃州堂 社製 |
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織田信長(おだ おぶなが)写し模擬刀 93,960円(税込・送料別) |
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織田信長は、1534年に生まれ室町末期に活躍した尾張の武将である。1560年、信長は桶狭間の戦いで今川義元を破り世に名を轟かせたが、その際に貨幣(永楽通宝)を鷲掴みにして天空に投げ気運を占うと、全ての貨幣が表側で揃い、「天は味方についた」と言って軍の士気を高めたと言われている。1567年に美濃の斎藤氏を滅ぼすと、翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を将軍位につけた。武田氏、朝倉氏、延暦寺などから成る信長包囲網が結成されるが、1570年に浅井・朝倉両氏を破り、1571年には比叡山延暦寺焼き討ちを断行した。1573年に将軍義昭を追放すると、1575年には長篠の戦いで武田勝頼に大勝。以後、天下布武を推し進めた。既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)を否定し武力で排除する一方、新しい考え方や文化を取り入れ、出自に囚われない大胆な人材登用や伝統に縛られない新機軸の方針・政策を断行して、応仁の乱以後続いた戦国時代を終結へと導いた。天下統一を目前とした1582年6月、家臣・明智光秀の謀反により京都・本能寺において自害に至った。(光忠(長船鍛冶の祖)は鎌倉時代1239年から1275年まで、長船鍛冶の頭領として活躍した刀工で、織田信長の愛刀の一振でもあった。) |
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